一角獣の目

忘れないための日記帳

発掘

 長いこと使っていなかったはてなIDでログインしてみると、大学休学中に書いていたこのブログを発掘した。

 当時の記憶はほとんどない。イベントごとについての記憶はあるが、そのとき何を考えていたかとか、どんなふうにものごとを見ていたかとか、そういう実感の部分についての記憶はもう薄れてしまっている。だから、このブログを見つけて嬉しかった。

 

 あれから真面目に大学に通い、就職をし、現在はパートナーと一緒に生活している。

 このブログを書いていたころには想像できなかった。自分が他人と一緒に暮らせるんだということを。自分の予想などまったくあてにならないから、人生は楽しい。

 

 また気が向いたら、短い日記でも書いていこうと思う。5年、10年後の自分のために。

 

 はてなにログインしたのは、読書記録のブログをつけようと思ったからだ。

 サブブログとして開設した。こちらも適当にやっていく。

ana9mabooks.hatenablog.jp

とうめい

 久しぶりにこのブログやTwitterの投稿を見返してみて、たった数か月前のことなのに、別の人の記憶を覗いているみたいな心地がする。

 以前のわたしは、死ぬことを異様に怖がっていた。家族とか学校とかに疲れて、生きることを止めたいって思っていたけど、かといって死ぬことができるわけでもなかった。わたしが出会う人はみんな、いつかもれなく死んでしまうんだと思うと、ある日突然隕石か何かが地球に満遍なく降り注いで、みんないっしょに絶滅してしまった方が楽だとか考えていた。この世界を見るわたしがいなくなることがとんでもなくおそろしかった。幽霊とかお化けとかあの世とかまったく信じていなかったけど、幽霊になって世界に留まることができる保証がつくまで死にたくないって本気で思っていた。ずっとずっと、色んなものを見ていたいし、色んなことを考えたいと思っていた。死にたくないから仕方なく生きている、みたいな状況だった。

 今でもできれば死にたくない。できれば、永遠に感覚してたい。でもまあ無理かなあって受け入れられるようにはなってきた。だって、わたしの好きな作家とか詩人とか音楽家とか、もれなく死んでるし。

「わたしが死んだ」ってことはどうやったって感覚できない。それを感覚する「わたし」はもう死んでるから。それってすごくおもしろいことだなって思えるようになってきた。できれば感覚してみたいけど、幽霊にでもならないと無理だから。

 なんていうか、前よりもちゃらんぽらんになった気がするのは否めない。でも、そういう今の方が生きるのが楽しいので、それでいい気もする。他人にどう思われても、わたしが見ている世界はわたしによっていくらでも変えることができるし、他人にとっては地獄の底でも、わたしの考え方さえ変えてしまえばそこは天国になる。それでいいかなって思う。自分の脳みそを信じて生きたい。

切り離されたわたしの像

 他人のなかにある「切り離されたわたしの像」が消えてしまったら、私自身の存在もその像ひとつぶんだけ消えてしまうように思いながら生きてきた。地球上の生命が滅んでしまったら何者も地球を観測できなくなって地球の存在があやふやなものになってしまうみたいに、わたしのことがみんなの記憶の中から消えてしまったら、私という存在も観測不可能になって、私が自分で「今生きて考えてるのは私自身だ」って言い張っても誰も聞いてくれなくて、そこにいないことになってしまうような気がずっとしていた。

 だから同級生や教師や塾の先生に忘れられてしまうことがとても怖くて、けれど忘れられないように頻繁に会いにいくなんて人見知りの私にはとてもできやしない芸当で、そうやって交友の場を避けてきて現在は片手で数えられるごくわずかなひとびととだけメールをしたりたまに会って話をしたりして過ごしている。そういう狭い人付き合いが私の中で当たり前になってきて、だとすると今付き合いのない、たとえば高校のときクラスが一緒でよく膝を突き合わせてお弁当を食べていた女の子とか小学生のときに近所に住んでいた今でも夢に出てくる男の子とか、そういう人の中では私は既に死んでしまっているのだろうかとかそういうことを、成人式の写真なんかを見たりしたときに思うわけです。

 実際はそんな訳じゃないということを、町で偶然知り合いに遭遇したときなどに実感するのだけど、それでも私が日常本を読んだり映画を観たり勉強したりなんだりしていることは私と、あとは家族くらいしか知らないわけで、そういう私を知らない人たちの中では私っていったいどういう顔をしていてどういうものを好んでいてどういう話をしていた人だというふうに認識されているんだろうか。

 その像に「切り離されたわたしの像」というふうにさっき風呂に浸かりながら名前を付けて、しかしそれは決して虚像ではなくて過去実際にそこにいた私であって、しかし現在の私ではなくて。私っていったいなんなんだろう、いまここにいてこんな長ったらしい文章を書きつけている私は本物であって、あの子の頭の中でお弁当を食べているわたしも私なのであって、どこにも本物とか偽物とかはないような気がします。だからべつに気張らなくてもいいのかもね、私はいっぱいあってどれも私なのよね。なので春からは気を抜いて生きていこうと思います。可能なかぎり。

少しずつ拾い集めるように

 数か月ぶりに本業の英語学習をした。四月から復学するので、衰えてしまった単語力や読解力(もともとそうあるもんじゃないが)を取り戻そうと足掻きはじめた。休学当初、というよりごく最近まで、外国語を読むのも嫌で半ばノイローゼ気味だったのだけど、今日は二度寝三度寝と繰り返し夢の中へ溺れているうちに午後四時すぎになってしまって、iphoneで時間を確認してこれからどうしようかと布団の中で微睡んでいると、ふと枕元でずっと埃を被っている翻訳講義の本が気になったのだった。復学はあと二か月後に迫っているというのに、私の言語能力は退化してゆく一方で、姿かたちを捉えがたい焦りのようなものは年を越してからずっと私の周りを取り巻いていて、しかし今日は私の中で何が変わったのか生まれたのかは知らないけれど、その文庫本を手に取って、眼鏡を掛けて、こころに躊躇する間を与えないようにばっと勢いよく蒲団を剥ぐって、一階に下りてそのまま本を開いた。

 課題文をワープロで文書化してプリンターで印刷しようとして、プリンターのドライバが消えてしまっていることに気がついてそれを設定したりなんだりして、ようやっとプリントアウトして、忘れてしまった単語の意味を攫ってノートに書きつけたりより良い形になるようにと文章を練ったりしているうち、あっという間に時間は過ぎて時計の針は午後十一時を指していた。それでもまだ全体の半分ほどしか訳せておらず、まあこんな丁寧に時間をかけられるのは休学中の今くらいなんだし、とことん丁寧にやってみるかと腹のあたりをむずむずさせながらノートを閉じた。

 あんなに憎かった英語が、今日は久しぶりに会ったきょうだいみたいに感じられた。どうして高校生の私は英語科なんぞへ進もうとしたのか、心理学とか哲学とか人間科学とかいろいろ興味はあっただろうに、なぜ大学というと英語しか見えていなかったのかと過去の自分を殴って考えを改めさせたい気持ちになったことは進学後数多あったが、この道を選んだということは小中高で英語を楽しんでいたのは確かであり、そのころの気持ちを少し思い出せたような気がする。

不覚

 さっき編集画面を開いて、昨日記事を書くのを忘れていたことに気づいて今とても落ち込んでいる。昨夜は久しぶりに腹が立つことがあって、精神的に危うくて、このまま起きていたらどんどんいけない方向へ向かっていくのは今までの経験から分かりきっていて、寝る前日課にしている筋トレも、指のマッサージも、萩原朔太郎詩集を読むことも、そしてこのブログを書くこともすべて放棄して蒲団へ潜り込んだのだった。怒りに流されてしまったようでなんだか悔しい。しかし朝起きたらもう怒りは彼方へ行ってしまっていて、昨日の対応は正しかったのだなと思う。睡眠は偉大な薬なり。今日はちゃんと日課をこなして寝る。

のらりくらり

  頭が痛いのであたたかいルイボスティーを飲む。喉が痛いのでマスクをする。寒いので暖房をつけて蒲団を被ってじっとする。心がざわざわするので小説に没頭することにする。腹が立ちそうなのでカラオケへ行って大声を出す。二十年生きてきて、ようやく対処法が見つかったことがたくさんある。これからもそうやって、ひとつひとつうまく対処して生きていければいい。

いちばん

 中学のころから付き合いのある、大好きな友人がいる。幸運なことに中高は一緒だったし大学に進学しても同じ市内に住んでいるので、今でも時間が合えば二人でご飯を食べたりお酒を飲んだり互いの家に泊まりに行ったりする。漫画や音楽の趣味も近しくて、話も合う。根暗で人付き合いが苦手な私とは対照的な子で、人気者だし友達も多い。どうして私なんかに付き合ってくれるんだろうと会うたびにいつも思う。

 そんな彼女だけど、当然私は彼女にとっての一番ではなくて、ふとした瞬間にそれを自覚してせつない気持ちになることがある。ただの嫉妬といえば嫉妬なのだけど、私にとって彼女はもっとも親しい人間と言っても過言ではないくらいで、それでも彼女にとって私は数ある友人の中の一人でしかなくて、そういうことを考えるとモヤモヤするのだった。こんな独占欲めいたものを抱えている自分も気持ち悪いし、ただの友達になんだよと、悩む私を笑う私もいる。

 このブログにも書いたように、今月初めに友人のサプライズパーティーを催した。そのパーティーの企画人に彼女もいて、というか彼女の発案で計画が始まった。いろいろな案を出して、プレゼントを用意して、手紙を書いて、そういうことをしている彼女を見ていて「こんなに人に尽くせるなんてすごいなあ」と思った。そして気がついた。自分はだれかに、こんなに尽くしたことがあっただろうか?

 尽くしていないのだから、尽くされるなんてことはたぶんきっとない。私はいつだって自分のことで精いっぱいだ。愛してほしい。愛されたい。それじゃダメなんだ。自分が人を好きになって、大好きになって、その人のために何かしてあげられるような人間にならなくては、きっと私は一生このまま、誰にとっての一番にもなれないまま、モブのまま死んでいくのだと思う。「誰かにとっての一番になりたい」っていうのは結構汚い感情だとは思うけれど、IBS持ちの私にとっては高望みかもしれないけれど、いつか。いつかそういう人に出会いたい。まず、今周りにいてくれる人を大切にしたい。