一角獣の目

忘れないための日記帳

少しずつ拾い集めるように

 数か月ぶりに本業の英語学習をした。四月から復学するので、衰えてしまった単語力や読解力(もともとそうあるもんじゃないが)を取り戻そうと足掻きはじめた。休学当初、というよりごく最近まで、外国語を読むのも嫌で半ばノイローゼ気味だったのだけど、今日は二度寝三度寝と繰り返し夢の中へ溺れているうちに午後四時すぎになってしまって、iphoneで時間を確認してこれからどうしようかと布団の中で微睡んでいると、ふと枕元でずっと埃を被っている翻訳講義の本が気になったのだった。復学はあと二か月後に迫っているというのに、私の言語能力は退化してゆく一方で、姿かたちを捉えがたい焦りのようなものは年を越してからずっと私の周りを取り巻いていて、しかし今日は私の中で何が変わったのか生まれたのかは知らないけれど、その文庫本を手に取って、眼鏡を掛けて、こころに躊躇する間を与えないようにばっと勢いよく蒲団を剥ぐって、一階に下りてそのまま本を開いた。

 課題文をワープロで文書化してプリンターで印刷しようとして、プリンターのドライバが消えてしまっていることに気がついてそれを設定したりなんだりして、ようやっとプリントアウトして、忘れてしまった単語の意味を攫ってノートに書きつけたりより良い形になるようにと文章を練ったりしているうち、あっという間に時間は過ぎて時計の針は午後十一時を指していた。それでもまだ全体の半分ほどしか訳せておらず、まあこんな丁寧に時間をかけられるのは休学中の今くらいなんだし、とことん丁寧にやってみるかと腹のあたりをむずむずさせながらノートを閉じた。

 あんなに憎かった英語が、今日は久しぶりに会ったきょうだいみたいに感じられた。どうして高校生の私は英語科なんぞへ進もうとしたのか、心理学とか哲学とか人間科学とかいろいろ興味はあっただろうに、なぜ大学というと英語しか見えていなかったのかと過去の自分を殴って考えを改めさせたい気持ちになったことは進学後数多あったが、この道を選んだということは小中高で英語を楽しんでいたのは確かであり、そのころの気持ちを少し思い出せたような気がする。