一角獣の目

忘れないための日記帳

切り離されたわたしの像

 他人のなかにある「切り離されたわたしの像」が消えてしまったら、私自身の存在もその像ひとつぶんだけ消えてしまうように思いながら生きてきた。地球上の生命が滅んでしまったら何者も地球を観測できなくなって地球の存在があやふやなものになってしまうみたいに、わたしのことがみんなの記憶の中から消えてしまったら、私という存在も観測不可能になって、私が自分で「今生きて考えてるのは私自身だ」って言い張っても誰も聞いてくれなくて、そこにいないことになってしまうような気がずっとしていた。

 だから同級生や教師や塾の先生に忘れられてしまうことがとても怖くて、けれど忘れられないように頻繁に会いにいくなんて人見知りの私にはとてもできやしない芸当で、そうやって交友の場を避けてきて現在は片手で数えられるごくわずかなひとびととだけメールをしたりたまに会って話をしたりして過ごしている。そういう狭い人付き合いが私の中で当たり前になってきて、だとすると今付き合いのない、たとえば高校のときクラスが一緒でよく膝を突き合わせてお弁当を食べていた女の子とか小学生のときに近所に住んでいた今でも夢に出てくる男の子とか、そういう人の中では私は既に死んでしまっているのだろうかとかそういうことを、成人式の写真なんかを見たりしたときに思うわけです。

 実際はそんな訳じゃないということを、町で偶然知り合いに遭遇したときなどに実感するのだけど、それでも私が日常本を読んだり映画を観たり勉強したりなんだりしていることは私と、あとは家族くらいしか知らないわけで、そういう私を知らない人たちの中では私っていったいどういう顔をしていてどういうものを好んでいてどういう話をしていた人だというふうに認識されているんだろうか。

 その像に「切り離されたわたしの像」というふうにさっき風呂に浸かりながら名前を付けて、しかしそれは決して虚像ではなくて過去実際にそこにいた私であって、しかし現在の私ではなくて。私っていったいなんなんだろう、いまここにいてこんな長ったらしい文章を書きつけている私は本物であって、あの子の頭の中でお弁当を食べているわたしも私なのであって、どこにも本物とか偽物とかはないような気がします。だからべつに気張らなくてもいいのかもね、私はいっぱいあってどれも私なのよね。なので春からは気を抜いて生きていこうと思います。可能なかぎり。